初診患者さま専用WEB予約

STAFF
スタッフ紹介

  1. HOME
  2. スタッフ紹介

院長紹介STAFF

経歴

平成5年新潟大学歯学部卒業
東京都内の一般歯科医院に勤務
平成9年神谷ファミリー歯科開院
平成15年三河歯科衛生専門学校の臨床実習施設
平成19年医療法人英成会 設立
平成20年日本口腔インプラント学会専修医取得
平成22年日本口腔インプラント学会専門医取得
平成27年三河歯科衛生専門学校講師(歯周病学)

所属学会

  • 日本口腔インプラント学会専門医
  • 日本歯周病学会
  • 臨床器材研究所
  • 上水塾(歯周組織再生療法)
  • 保田矯正塾

自己紹介SELF-INTRODUCTION

誕生

私は昭和43年の風薫る5月、愛知県に待望の長男として生まれました。
この時、すでに2人の姉がおり、いわゆる"末っ子長男"として、人生を歩き出しました。

幼少時代

小さい頃の記憶はあまりはっきりとしていませんが、末っ子のため、両親、姉たちに非常に可愛がられ、のびのび育ったことは鮮明に憶えています。

保育園時代は何故か保育園に行くのが嫌で、毎朝ぐずっていました。しかし不運(?)なことに園長先生が、私の家のすぐ近所に住んでいたため、毎朝家まで迎えに来てくれました。
朝「英道くーん」と園長先生の声が聞こえると、父の布団に隠れていました。その私のささやかな抵抗も虚しく、結局布団からひきずり出されて保育園に連れて行かれました。

幼心にも「きっと自分の布団に隠れていたのでは見つかってしまう。だから父の布団に隠れよう」という計算(?)があったのだと思います。息を潜めて薄暗い布団の中、父の匂いに包まれていた感覚は今でも懐かしく思い出します。

小学校時代

あんなに嫌だった保育園を無事卒園し、晴れて小学校に入学しました。
しかし小さい町ですので、周りは顔見知りばかりです。緊張したという記憶はありません。
しかも私は当時から体格が大きかったので、必然的に友達を引き連れて遊ぶようになっていました。

好きなスポーツは野球でした。少年野球のチームでピッチャーをしていました。当時はとにかく野球が楽しくて仕方なく、色々な球を投げてみたくて、握り方を必死に練習していました。

好きな球団は、もちろん中日ドラゴンズ。はじめて球場に行ったのは小学校3年生の時です。現在は「ナゴヤ球場」と言いますが、当時は「中日球場」という名称でした。その中日球場に、家からかなりの時間をかけて、父の運転する車で行っていまいた。何とも言えない中日球場の雰囲気に包まれて、英道少年はかなり舞い上がっていたのを、今でもはっきりと憶えています。普段はTVの中にいる選手が、名前を呼べば私の声に振り向いてくれそうな、そんな不思議な感覚でした。

そんな私の興奮とは裏腹に、試合は負け、超不機嫌で無言で車を運転する父。何とも複雑な気持ちだったのをよく憶えています。

私が最初になりたかった職業は、電車の運転士でした。
その後、野球にハマり出すようになってからは、野球選手に憧れるようになったのです。

父は歯科医師ですが、歯科医師になろうと思ったことはありませんでした。父は1日中1人で働き、夜中に緊急の患者様を診ることも度々ありました。そんな父の姿を見ていましたので、むしろ歯科医師になりたくないと思っていました。

中学・高校時代

バリバリの野球少年になるかと思いきや、中学では何とテニス部に所属しました。思春期真っ只中、あの爽やかな感じに英道少年は憧れてしまったのではないかと思います。
そしてチョイ悪な感じの高校時代。チョイ悪ではあったものの、親元を離れて羽を伸ばしてくて、何としても遠くの大学に行きたい一心で、割と勉強しました。

人に尊敬される職業に就きたいと思い、国立医学部を目指すものの、最終的には歯学部を受験することになりました。「親と同じ職業なんて」と敬遠していたはずなのに、まさか同じ道に進むことになろうとは・・・。

大学時代

新潟大学歯学部に入学しました。

合格した時は、本当に受かったんだと、呆然としていましたが、大学生活が始まってみれば、はじめて親元を離れて暮らす開放感で、たまらなく楽しい日々を過ごしていました。

海も近く、ウインドサーフィンに明け暮れる日々。しかしその分テスト前は徹夜の毎日。
海で鍛えた体力を十分活かして乗り切りました。

3代目歯科医師誕生

海を満喫した、お気楽な学生生活の名残を残したまま、東京で勤務医となりました。実は祖父も歯科医師でしたので、私で3代目歯科医師ということになります。周りからは「お気楽な3代目」と言われていましたが、本人はそんな気もなく、仕事を覚えるのに精一杯。

しかし、勤務していた医院で出会った理事長先生の考え方に、大きな影響を受けました。その考え方とは"患者さんが満足することが大事なのだ"というものです。

高い技術さえあれば、患者様を満足させられると思っていた私には、思ってもみない考え方でした。患者様の望む状態に近付けるために、どれだけサポートできるかが、患者様の満足につながります。高度な技術は必要ですが、それだけを押し付けるのは、歯科医師の自己満足に過ぎません。そう気づいた時、私の歯科医師としての考え方が大きく変わりました。

妻との出会い、そして奇跡の夜

東京暮らしや歯科医師の仕事に慣れ、新人歯科医師の指導係となっていた頃、新入りの歯科医師として入職してきたのが、現在の妻です。

妻との付き合いの中で忘れられない出来事が起こりました。当時も私は熱烈な中日ファンで、中日戦がある日は仕事帰りに神宮球場や横浜球場に足繁く通っていました。そしてその日は彼女(妻)と2人で神宮球場へ出掛けたのですが、彼女のほうは野球といえば巨人しか知らない、ド・ド・ド素人。もちろん球場で野球を観ることなんて、生まれてはじめてです。彼女から言わせれば「まぁ夜風に吹かれてビール飲んだら、気持ちイイかもね」位の感覚です。熱中して応援している私の横で、彼女はのんびりくつろぎムードです。

その時彼女が、熱中して応援している私に対して「なんか、こっちに向かってくるね」と言いました。

"って言うか、それはホームランボールじゃないかぁー!!"

ボールは外野席の私たちの方へ向かってきました。そして咄嗟に出した私の右手の中に、ホームランボールはありました。私は思わず立ち上がり、右手を高々と突き上げました。周りの人々が私を囲んで歓声を上げています。私も何だかわからないまま「ウォーッ!」と叫んでいました。

その横で"何だろこの人は?"みたいな顔で彼女は私を見ていました。「良かったね」と軽く言う彼女に「そんなレベルじゃなんだ!ホームランだよ、ホームランボールを取ったんだよ、信じられないよー!!」と興奮したのは、忘れられない思い出です。もちろんそのボールは、我が家の宝物となっています。

あれから数年後、私の影響ですっかり中日ファンになった妻は、時々当時を思い出して、こう言います。「今ならあの夜の出来事が奇跡のようなことだと思えるし、あなたが興奮していたのもよくわかる。できることなら、私も中日ファンであの場所にいたかった」と。

神谷ファミリー歯科開業

結婚後、愛知県岡崎市に「神谷ファミリー歯科」を開業しました。
患者様に何とか満足してもらおうと、毎日必死でした。一生懸命説明し理解してもらおうとしたり、技術向上のために休日返上で勉強会にも出掛けました。

しかしそんな日々の中で、ひとつの疑問が湧いてきました。「"痛いところを治療する"これだけで本当に良いのだろうか」「このことが本当に患者様のためになっているんだろうか」という疑問です。

「いくら治療しても、歯は元通りにはならない。だったら歯科医師としてできることは何だろう」

そんな中で辿りついたのが、"悪くなる前に、患者様の口腔内を健康に保つこと。それに勝る治療はない"という結論でした。

予防の重要性を認識した私は、予防に力を入れようと決心しました。しかしなかなか予防が浸透せず、ジレンマを抱えるようになっていきました。「やはり痛くなければ、患者様は歯科医院へは来ないのだろうか」そんな思いに負けそうになった頃、奇しくも子どもが生まれました。そして、我が子の生え始めたきれいな歯を見て、「やはり自分の考えは間違っていなかったんだ」と確信しました。「こんなきれいな歯で一生を過ごせることが、患者様の本当の満足につながるはずだ」そんな信念をもって、予防に取り組み始めました。

現在の私

患者様のお口の健康を維持していくために努力するのはもちろんのこと、これから大人になっていく子どもたちの歯を一生きれいな状態に保てるよう、全力で頑張ろうと思っています。

そのためにも楽しみながら通ってもらえる歯科医院になれるよう、日々努力しています。

また、カミファミクラブを通じて、今まで以上に子どもたちの健康をサポートしていきたいと思います。

患者様すべてが笑顔で幸せな毎日を過ごせるようにサポートできることが、私の喜びであり「神谷ファミリー歯科に来ると、前より元気になり、幸せを感じる」と言ってもらえるような、ビタミン剤のような医院になることが私の夢であります。